Grid and Vidar
3 - 魔女グリードの息子
巨人の魔女グリードは、生まれてきたオーディンの子に名前をつけることをしませんでした。彼女の家は町から遠く離れていて、滅多に人も尋ねてきませんでしたから、この体の小さな息子のことを誰に話す機会もありませんでした。小さな彼は、彼のことを隠しておきたい母親の気持ちを知ってか知らずか、言葉を発することがありませんでした。そして、決してどこへも行かずグリードのそばにいたので、彼女は彼を呼ぶために名前をつける必要が無かったのです。
グリードは、ときどき夜の森に出かけていきました。そんなときは、小さな彼を蔦のかごの中に隠して、白い布をかけておきました。月明りの下で、グリードはそこにあるあらゆるものと言葉を交わしました。切り株の上に置かれたかごの中から、小さな彼は黙って母親を見守っていました。グリードが、見えるものと見えないものすべてにかけていたのは知恵の言葉で、彼女もまたそれらから多くの知恵を受け取っていたのです。
ところがある夜のこと、グリードは小さな彼の入ったかごを見失ってしまいました。彼女は森の万象にかごを行方を尋ねました。すると切り株が答えました。
「狼が彼のかごをくわえて行った。彼は群れの首領の大きな牡だ」。
それから、夜風が言いました。
「名前を教えておくれでないかい。そうすればあたしが呼んであげる」。
グリードは、名前がないことを泣きながら告げました。森の万象たちは押し黙ってしまいました。そこで、一部始終を静かに見つめていた月が、グリードに言いました。
「おまえは思うがまま歩いていくがいい。わたしがかごの在り処を照らし出してあげよう」。
それで、グリードは泣きながら歩き出しました。夜風は、彼女の濡れた頬を優しく撫でました。道を塞ぐ茨たちは、彼女のために道を開けました。そして、月が黙って、狼たちの群れを照らし出しました。彼らの真ん中に、かごが置いてありました。グリードは駆け寄って叫びました。
「わたしの小さな息子を返してちょうだい。返してくれるのなら、わたしをここで食べてもかまわないから」。
すると、ひときわ大きな一匹の狼が、静かに答えました。
「お前が来るのを待っていたのだよ。我々は、森の守り神とその母親に無礼を働くようなことはしない」。
「いったい何をしていたの?」。
グリードは彼に聞きましたが、狼は黙って去っていきました。群れの仲間たちも、彼の後を追って闇の中へ消えました。かごを取り戻したグリードが、急いで中を覗き込んでみると、小さな彼はいつもと変わらず、黙って彼女を見上げているだけでした。
そんなことがあってからしばらくたったある日、グリードの家に珍しくお客がありました。それはいつかオーディンが化けてグリードを連れ出した、友人の女性でした。見たところ彼女は本当の彼女のようですが、様子が少し違っていました。
「話を聞いてくれるかしら、あなたはわたしの数少ない本当の友人だわ」。
「もちろんだわ」。
彼女の話は、戦争のために夫を亡くした悲しみと絶望のあまりに、死に場所を探して夜の森を歩いていたところ、不思議なあるものに出くわして、そのために思いとどまったのだ、というものでした。
「狼の群れが、わたしの体を運んで、穴蔵で食べてくれるものと思っていたら、ひときわ大きな狼が、私はお前の夫だ、というの。それから、彼の指し示すほうを見ると、声を上げたくなるほどきれいな、小さな男の子が座っていたの。わたしは夢中でそれを見ていたわ。何が起こったのかといえば、何も起こらなかった。ただ、気がつくと、わたしはもう悲しむ必要が無いのだとわかったの。ねえグリード。心を最後に救うのは、宝物でもなければ優しい言葉でもないわ。それは沈黙よ。それも、このうえなく無垢で透明な沈黙なの」。
「あなたに話しに来たのは正しかったわ。何が起こったのか、あなたにならわかってもらえるだろうから」。と言い残して、彼女は帰って行きました。グリードはそのとき、小さな息子が正真正銘の森の神であり、しかも沈黙が形になったものであるということに初めて気がついたのです。