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死神王と死神

1 - ある戦士の帰還

そこは、絶望と呼ばれていた。死の国の入り口であり、悲しみから逃れられない人々を絶えずおびき寄せ、闇に閉じ込め、彼らは二度と光を見ることはないのだという。

気がつくとわたしはその中にいた。もはや涙は枯れ果て、焼け付く喉からは血を吐いていたが、それでもなおわたしは泣き叫んでいた。目に映るものは何もなかった。ただ、幻聴が、わたしのあとを追いかけてきたので、わたしは急きたてられるように歩き続けた。闇の中で私は何度も躓いた。けれども倒れるわけにはいかなかった。血を吐く喉で声にならない叫び声をあげながら、わたしはただ幻聴から逃げ続けるほかなかった。

両脚で大地を捉える感覚もなかった。何かの拍子に、体が宙に浮いたあと、それは強く打ち付けられ、それきり、もう二度と立ち上がれなくなった。そのときわたしは、じつに不思議な感覚にとらわれた。そこで、わたしが消えたのだ。と同時に、幻聴も途絶えた。記憶にもなく、根拠もなしに、しかしわたしには、それが間違いなく死であることがわかった。その瞬間、すべてが消えて溶け失せた。そこにはわたしもいなければ、わたしと対峙していたあらゆる対象物、手に触れるもの、目に見えるもの、思考に上るもの、すべてが無に帰していたのだ。

えもいわれぬ高貴な光がやってきて、わたしを包んで満たしていった。けれども、わたしはそこで再度、 わたし自身を取り戻そうとした。もう一度、 幻聴と対峙することを、その機会が与えられることをわたしは望んだのだ。すると高貴な光は、音もなく集約していき、あるひとつの形を顕した。そして彼は、わたしに近づき、血だらけの右手に顔を寄せ、小さな両手をゆっくり伸ばしてきた。

「だめだ。これを手放すわけにはいかない」。

わたしは叫んだ。無垢な幼子の形をした光は、黙って手を引いた。それから、仰向けに倒れたままのわたしの傍らに座って、身動きもせずに見守っていた。わたしは彼の表情に目をやった。すると、枯れたはずの涙があとからあとからあふれて流れ出た。光の子の表情には、感情をしのばせるものが何一つなく、堅く口を閉じているだけだった。けれどもその様子とたたずまいは、それを見るわたしの感情に嵐を引き起こした。わたしは体を震わせて泣き声をあげ、ついに右手からそれを手放し、両手で顔を覆ってさらに慟哭した。すると光の子は、わたしが手放したそれをそっと手に取り、音もなく立ち上がって、その場から消えた。

嵐が去ったあとの空のように、再び起き上がったわたしの感情は晴れやかだった。夢から覚めた者のように、あるいは、夢の中へ迷い込んだ者のように、わたしは再び歩き始めた。光の子を探すために。

闇の中から彼を見つけ出すのは難しくなかった。 彼はわたしがやってきたのを知ると、黙って顔を上げた。それから、わたしが手放したものを胸の前で握り締めて見せた。

「だめなんだ。わたしはそれを手放すことができないのだよ。・・・・そのリボンがいったいなんなのか、あなたに語り明かそう、光の子よ。最初にわたしの母親が、それをわたしの左腕に巻きつけた。そこには大きな刀傷があったからだ。わたしが戦場で傷を受けたのは、後にも先にもそれきりだ。傷が癒えたあとも、お守りとしてわたしはいつも同じところにそれを巻きつけておいた。わたしがついにそれをほどいたとき、そこで何が起こったか? ──目の前には彼女がいた。わたしはその首にそれを巻きつけ、ひとおもいに締め上げて彼女を殺したのだよ。最後に彼女はわたしの名前を呼んで、私はおまえを許さないだろう、それはおまえが私を殺したためではない、おまえが私の愛する夫を、おまえの偉大な父親を殺したからだ、そう言った。・・・・わたしがここであなたと出会うまで、その幻聴はずっとわたしを追いかけてきたのだ。あなたは、わたしがそれを手放すべきだというのだね、光の子よ。でも、だめなんだ。やっぱりわたしには、手放すことができないのだ」。

彼はあいかわらず黙って、瞬きもせずわたしをまっすぐに見つめていた。わたしは彼に近寄っていって、右手を差し出した。

「だから返しておくれ。わたしに証明させて欲しいのだ。わたしにまだ罪を償う力があることを」。

わたしがそういうと、光の子は、リボンを持った小さな手を差し出した。沈黙した表情にはやはり感情がなかったが、わたしの目には、わたしの中の悲しみを映した彼の姿が見えた。リボンをその手から取り上げられた後、彼はそれでも腕を下ろそうとしなかった。黙って、わたしの顔をまっすぐに見つめていた。

「そうか。一緒に来いというのだね、あなたと。・・・・あなたのその手をとれば、わたしはあなたの国へ行くことになる。一切が自由で、束縛を示唆するものさえなく、沈黙と平和がすべてのものにとって変わる場所へ。あなたはわたしにそれを垣間見せた。けれどもそのリボンを手放さなかったせいで、わたしはもとの世界に引き戻されてしまったのだ。この幻の世界へと再び。・・・・よいのだ、光の子よ。あなたとは必ずまた巡り会うことになるだろう。いまはまだ、少しばかり猶予をもらうだけだ。あなたがそれを許してくれることを、わたしは知っている。そして、そのとき再会したあなたは、今度こそわたしをそこへ連れて行く。あなたはすべての幻に幕を引くのだ、容赦なく」。

絶望と呼ばれた森のその出口まで、彼はわたしの後をついてきた。闇の中に光が見える場所まで来ると、彼は立ち止まった。わたしは小さな彼を見下ろした。沈黙した感情のない表情はそのとき、別れを惜しむ寂しい子供の姿としてわたしの目に映った。

「絶望から帰還したわたしの腕には、再び欲望が抱かれることになるだろう。だがそれも、再びあなたと会うまでのつかの間の夢なのだ。わが愛しい光の子よ」。

幼子の形をした光は、黙ってわたしを見上げているだけだった。わたしは最後に、その様子と造形をとくと観察した。彼は、──その子は、子供ではあるにせよきわめて中性的で、男らしくも女らしくもなかった。力強さとも、また弱々しさとも無縁であった。ただほかに比べようがないほど無垢で、たとえようのない中庸であり、澄み切った透明が形を得たような形容のし難さがあった。けれどもわたしには確信があった。このままこの場所で、これ以上彼と一緒にいたら、わたしはこの透明な無垢に飲み込まれてしまうだろう。それを拒むことができるのはわたしの意志だけだ。彼は、わたしがここにいることも、あるいはここから去ることも、どちらも望んでいない。それを決めるわたしの自由を彼は完全に許している。

しばらく彼を見つめたあと、わたしは彼に背を向けて歩き出した。振り返らずに、躊躇なく、闇が象る光の中へと進んでいった。わたしの体がその光に飲み込まれると、まったく自動的に、朝が来て目が覚めたときのように、かつての馴染み深い感覚が全身を駆けめぐり、同時に、記憶がすっかり調えられたことをわたしは感じた。振り返ると、そこには森があり、 奥に見える闇はただ平凡な闇にしか見えなかった。 わたしは戻ってきたのだ。この光と影の世界へと。

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