終わりの物語
6 - 少年と息子
黒髪の少年は、たった一人で故郷へ戻ってきた。そのとき、身も心も疲れ果てた彼は、かつてのように一人ぼっちに戻ったのだった。彼の涙ながらの話を聞いてくれるものは少なくなかった。彼らは皆、同胞を裏切った宿敵に激しい怒りを燃やした。けれども、同情して涙を流してくれる者はいなかった。誰も彼も、ただ己の復讐を遂げるために、彼を置いて海へ出て行ってしまった。
彼はあてもなく荒野をさまよいながら、いつしか、最愛の父と出会った場所までやってきた。それは断崖絶壁のけもの道で、あの日と同じように北風が、うなり声を上げて吹いていた。彼はそこで、かつてあった楽しいことや、嬉しい思いをしたことを、いくつか思い出してみたけれども、後からあとから涙があふれるばかりで、少しも心の救いにはならなかった。
険しい山を越えると、こんどは灰色の枯れ野がどこまでも広がっていた。少年はふと思い出した。
「この先にあるという常闇の森には、いまでも主(あるじ)の母子がいるのだろうか?」。
猪になった聖者が、彼女を死神だといって恐れていたのを思い出した彼は、彼女に会おうとそのとき決めた。
少年の足は傷だらけで、足跡には血が滲んでいたけれども、彼はもう黙って歩き続けるだけだった。ふいに、人の叫び声のような鳴き声をあげて、一羽のカラスが肩先をかすめて飛んでいっても、あるいは、灰色の大きな犬どもが、ぎらぎらと目を光らせて、血の匂いに誘われるように彼の足もとにまとわりついても、ただ黙って歩き続けた。
枯れ野がどこで終わって、森がどこから始まったのか、少年には分からなかった。ふとあたりを見渡すと、それは鬱蒼とした夜の森だった。生き物の気配はなく、沈みきった静けさに覆われていたが、彼は少しも不安にはならなかった。
音のない闇の中で、どれほど時間が流れたのか知る術はなかった。わずかに開らけた場所にやってきたとき、その真ん中に立つ巨木の幹が彼の視界を塞いだ。見上げると、それは夜の空を支えているかのようだった。
するとそのとき、背中に誰かが立っている気配がした。少年は振り向いて、「あっ」と言って駆け寄った。それは彼がよく知る人物だった。
「やあ兄さん、生きていたんだね!」。
少年は飛びついてその手を取った。
「それじゃ今から島へ帰って、本当のことをみんなに話しておくれ。そうしたら、何もかも無かったことになって、元通りに仲良くやっていけるに違いない。兄さんの帰りを待っていないものはだれもいないよ」。
「それはまことにありがたい話だ。でも、私は戻れないのだ。卵から孵った雛はもう殻の中には戻れない。起きてしまったことを無かったことにできる者は、だれもいないんだ」。
背の高い美しい青年は、静かな声で言った。彼の姿かたちは、彼の母親に生き写しだというが、少年は彼女を見たことがなかった。少なくとも、父親の死神王の面影は、この息子の顔つきにはなかった。
「それじゃ、何か身に付けているものを俺に渡してほしい。それを持って帰って話をすれば、何が本当かみんなにわかるだろう。俺が兄さんを殺したんじゃないってことが」。
少年は息子に頼んだ。
「君の言うことが全く本当でも、あちらでは嘘こそが本当なのだ。私の父がそれをやった。誰ひとりとして、彼の呪いからは逃れられない」。
息子はやはり落ち着き払って答えた。
「そうとも、彼は大嘘つきだ」。
少年はきっぱりと言った。
「そして、その嘘がばれるのを何より恐れていた。いっそのこと俺が、そいつを全部ばらして、彼の苦しみを取り去ってやれたなら、どんなにいいだろう」。
「お前はなんと優しいのだろう、黒髪よ」。
息子は、心底から嬉しそうに言った。
「でも、本当のお前を誰も知らないことを悲しんではいけない。それがお前の役回りだったのだから」。
「ねえ兄さん、あんたが生きていてくれたら、だれもかれも諍いをやめて、昔のように楽しく暮らせるにちがいない。絶望に暮れた者も、病に沈んだ者も、あんたの顔をひと目見れば、生まれ変わったように喜んでいたじゃないか。彼らの悲しみがいかばかりか、あんたにはよくわかるだろう? ・・・・兄さん。あんたは誰に殺されたんだい?」。
「過去がお前をとらえようとする時、彼らは憎しみの呪文を唱えるだろう。粉々に砕け散った殻に戻ろうとしてはいけない。黒髪よ、お前は過去を振り捨ててここへ来たはずだ」。
「ああ兄さん。俺は、この森の主に会いに来たんだ。聖者さえ恐れていた死神に」。
「そうだったのか」。
息子は微笑んでうなずいてみせた。
「彼女はいったい何者なんだい?」。
「いいとも、教えてあげよう。よくお聞き」。息子は言った。彼の声は、朗らかな詩を詠うようだった。
「彼女はかつて、白鳥の姿をして旅に出た。とても勇敢な彼女は、白く輝く空の故郷を出発して、暗く冷たい地の底まで降りていった。飛び去る彼女の美しい影から、一人の美しい男が生まれた。彼女は彼と恋に落ちた。それが、世界で最初の誘惑だった──彼女が彼を? それとも彼が彼女を?・・・・それはもう誰にも分からない。長い長い時間が過ぎて、なにもかも忘れ去られてしまったから。やがて彼女は、自分を忘れた。それが光であったことを、風であったことを、そしてあの日旅に出たことを。地上の者たちがみな道に迷い、嘘を信じて生きるようになったのは、彼女が自分を忘れたからなんだ。でも彼だけは──彼女の影から生まれた彼だけは、決して忘れなかった。いつか潮時が来たら、彼女を闇の檻から救い出して、再び空へ帰すことが、彼にさだめられた運命だった。影が光を手放したなら、それはおのずから消えてしまう。それでも彼は、彼女を決して裏切らなかったんだ」。
「彼は、──俺たちの父さんは、死んでしまうのだろうか?」。
少年が思いつめた表情で言った。息子はやはり微笑んで、詩の続きを詠うように答えた。
「みんなはまだかろうじて嘘を信じている。あべこべの世界がかろうじて続いている。それが終わるとき、すべてのものは反転する。彼女が自分を思いだすとき──あべこべだったものが、元通りになるのだ。それは、死さえも祝福に変えてしまう」。
「ああ兄さん、俺には耐えられない!」。
少年はかぶりを振って叫んだ。「彼が力を失ったとき、どんなに落胆するだろう、どんなに嘆くだろうと思うと、気の毒でたまらないんだ」。
「心優しい黒髪よ。お前こそが、彼の心の息子なのだ。だからよくお聞き」。
息子は優しく諭した。
「彼の歓びは、力を得て奪い取り、押さえつけて支配することにはない。それはただひたすらに、彼女の許しを得ることだけだったのだ。彼女の旅は、この地上が嘘で満たされ、あふれかえって沈んでしまうまで終わらない。その景色を見るまでは──彼は約束したんだ、それをきっと彼女に捧げると──彼の力は、そのためのものだったに過ぎない」。
「彼女はいったい、彼を許したのかい?」。
少年は俯いたまま、怯えながら訊いた。
息子は、にっこりして答えた。
「許したとも。その証が、彼女の息子だ。彼を最後に迎えに行って祝福する、彼女の息子だ」。
そこまで話を聞いて、少年は青ざめた顔をさっと上げた。そして何も言わずに、闇の中へ駆け出していった。息子は、少年が父のもとへ向かうことを知っていたけれども、呼び止めることも追いかけることもしなかった。
やがて走り去る足音も消え去り、ひとときのざわめきが途絶えたあと、森には再び沈黙が戻ってきた。問うことも語るものもない者たちは、言葉がそれを象るのを待つことをしない。かれらはただ、そこが安息と平和のまっただ中で、みずからがまったく満ち足りていることを知っている。そのとき、すでに象られた影たちもみな闇の中に溶け失せ、その沈黙から戻ってくることはない。