終わりの物語
5 - 聖者の死
常闇の森から帰ってきた男の話は、老人と、彼の息子たちによって語り継がれていった。老人が死に、長い月日がたっても、彼らの話は、多くの冒険好きな男たちをこの枯れ野へと引き寄せた。だが、森を目指して旅立ったあまたの男たちは、誰ひとりとして帰ってこなかった。世にも美しい森の淑女に会った者も、彼女の高貴な息子を見た者も、ついに現われなかった。
ところがある日、一人の年老いた聖者のもとへ、一人の少年が訪ねてきてこういった。
「わたしは常闇の森へ行って帰ってきたものです。もちろん森の主の麗しい母子にも会ってきました」。
これを聞くや否や、すっかり体の弱っていた聖者はますます気を病んで、床に臥してしまった。
それでも少年は、大きな屋敷へ毎日やってきて、話を聞かせたいと願い出るのだった。呆れた従者たちは追い返そうとしたが、聖者から褒美をもらうつもりでいる少年は頑として退かない。仕方なく聖者にお伺いを立てると、
「驚きや恐れのために私は死ぬかもしれない。だが、聞いておかねばならない話もある」。
と言って、少年を連れてくるよう言いつけたのだった。
黒髪に美しい容姿の少年は、喜び勇んで聖者の寝床までやってきて、自分の旅の話を始めた。その声の調子と流れるような語り口、くるくる変わる魅力的な表情には、まわりで聞いている従者たちも思わず引き込まれるほどだった。
「それでお前さんは、森の主からどんな話を聞き出したのか。彼女がどうして森にやってきたか、森に来る前はどんなだったか、それも聞いたのかね」。
聖者は少年に尋ねた。
「もちろんです。彼女はこの世のあらゆる知恵という知恵を知っているのです。聖者様、私はそれをすべて残らず譲り受けてここへやってきたのですから、私を召し抱えない手はありませんよ!」。
少年は得意満面に言った。すると聖者はこう言い返した。
「よろしい。お前さんを私の跡取りにしてやってもいいぞ。もしもお前さんが、これからもう一度常闇の森へ行って、彼女と彼女の息子の心臓を取ってここへ帰ってくるというなら」。
「はぁ。いいでしょう」。
少年は平気な顔をして引き受けた。
「心臓を取って食えば、知恵だけでなく神通力も身につくというものだ。でも、息子の心臓は、私に下さるのでしょう?」。
少年は嬉しそうに聞いた。年老いた聖者も嬉しそうに笑って、うなずいて見せた。
「しかし聖者様。殺して心臓を取ってくるとなれば、会って話を聞くのとは、比べものにならない金繰りをしなければなりません。それを私に施してくださいますか?」。
少年がそう言うと、聖者はまたうなずいて、
「屋敷の金という金、宝石、武具はすべておまえにやろう。だから必ず、約束を果たしてここへ戻ってきなさい」。
と言った。
屋敷を出た少年は、屋敷じゅうの財宝が詰まった大袋を、聖者が従者に言いつけて用意させた馬車に積んで、意気揚々と出発した。ところが彼は、森にも枯れ野にも向かうつもりはなかった。
「偉い聖者と聞いていたが拍子抜けだ、俺のつくり話をまるまる信じたうえに、欲深い俗物とはな・・・・しかし、お屋敷じゅうの財宝をいただいたんだから、もうあの老いぼれに用はないのだ」。
彼は独り言を言ってほくそ笑んだ。
けれども、「だが・・・」。と、いったん考え込んだ。
「ためしに猪でも捕まえて、心臓を取り出して持っていったら、やつは果たしてどんな顔をするだろう?」。そう考え始めたら、少年は居ても立ってもいられなくなっていた。
黒髪の少年が懐かしい我が家へ戻ってきたのは、彼が戻ると約束した日からずいぶんあとになってからだった。それで、彼の主人はそのわけを尋ねた。
「わが父よ、聞いてください。とっておきの土産話があるのです!」。
少年は小躍りして、彼が父親のように愛するただ一人の主人に言った。死神王はそのとき、少年が話そうとしていることのはじめから終わりまですべてお見通しであったけれども、そうとは言わなかった。
「うまい具合に猪の親子を捕まえて、心臓を二つ袋へ入れて、老いぼれ聖者の屋敷へ戻ったのです。私を見たときのやつの顔といったら・・・・迷子の赤ん坊が母親を見つけたように喜んでいましたよ。それで、猪の心臓を手渡してやると、従者たちが見ている前で、卑しい獣のような顔をして、二つとも、がつがつと食べてしまったのです。私は、腹を抱えて笑い出したいのを懸命にこらえていました。食べ終わると、すっかり安心して、死んだように眠ってしまいました。ところが翌朝になると、従者たちが、主人が行方知れずになったと大わらわになっている。私は見当がついていたので、裏庭に行きました。すると、あのぼろ切れのような老いぼれが、泥だらけになって寝ているのです。顔は血だらけで、鼻がつぶれてひどいありさまでした。でも、いったいどうしてそんなことになったのか誰にも分からない。分かっていたのはこの私だけです。つまり、猪の心臓を食べたので、猪のように鼻で土を掘り返し、泥浴びをしたのだと。それからというもの、従者たちのいうことをいっさい聞かなくなった老いぼれは、目についたものを片っ端から口に入れることを始め、ついには、毒草をたんと食べて、死んでしまいました。その時も、私は大笑いしたいのを必死でこらえていたものです。・・・・しかし、最後に困ったことがありました。というのも、老いぼれがとても偉い聖者様だというので、従者たちがその遺骸をいつまでたっても始末しないで置いておいたのです。それは白い大きな布がかかっていましたが、ある夜ひそかに中を覗いてみると、そこには一匹の大きな牡猪が寝ていたのです!」。
白い牙の生えた猪はむっくりと起き上がり、少年に向かって喋りはじめた。それは彼のかつての姿である聖者の、生まれてから死ぬまでの長い話だった。猪は少年が、森の淑女の心臓と偽って猪の心臓を食わせたことを知っており、それを咎めもせず、かわりに自分の悪行をひたすら悔いて詫びるのだった。
「わたしがこの手で殺した、あの黒髪の巫女が言ったことは、嘘ではなかった。私は、こうして一度死んで、猪に生れ変って初めて、かつての私がいったい何をしてきたかを知ることになった。ああ、こんなにありがたいことはない。私はいま、かつての私を思い出しているのだ!」。
それから、牡猪は誰にも知られず、ひっそりと姿を消した。死体が消えたことを知った従者たちは、聖者は生き返ってどこかへ旅に出たのだといって、また大騒ぎをした。少年は彼らに、
「聖者が食べたのは猪の心臓で、そのために彼は猪になってしまったんだ。ご大層な奇跡などなにひとつ起こっちゃいないぜ」。
といって真実を話したけれども、だれ一人として相手にしてくれなかった。そのうちに少年はすっかりばかばかしくなって、とうとう根城へ帰ることにしたのだった。
死神王は最後まで黙って聞いていた。話が終わると、少年に向かって静かに聞いた。
「なにやら腑に落ちないことがあるようだな」。
「はい」。
少年はそう言って、神妙に打ち明けた。
「あの哀れな老いぼれが、あんなにも恐れおののいていた森の主とやらを、この目で見ておけばよかったと、ふと思うのです」。
「そのようなことか」。
死神王は、相手の言葉を先読みしていたかのようだった。
「おまえはいずれ、彼女の息子に会うことになるだろう。すべてはそのための巡り会わせなのだから」。
「老いぼれはかたく信じていました。彼女をひと目見たが最後、かならず命を取られると・・・・私も、取られるのでしょうか?」。
「この世の万象の移り変わりは、物語の変遷にすぎない。おまえは、わたしの物語をわたしとともに分かち合い、わたしに先駆ける者としてここにいる。だが、それもいつかはかならず終わる。物語の中を往く者は、物語を止めるすべを知らない。それを連れてくるのが、彼なのだ」。
「彼女の息子が、私を殺すというのですか」。
そこで少年は初めて不安げに相手を見つめた。
「もしそうなら、私は今ここで命を絶つことを願います。見えている死を待つ日々を過ごすだなんて、とても耐えられません」。
すがるように訴える少年に向って、死神王は穏やかな声で答えた。
「思い煩うことは何もない。そのときおまえは、物語から解放されるのだ。そして死は、唐突でなければならない。それが外からやってこないかぎり、物語は終わらない。それこそが、わたしの生涯をかけた宿願であり、その成就をともに祝福するただ一人の友が、目の前にいるおまえなのだよ」。
彼はそう言って、わが子を見つめるように少年を見つめた。