終わりの物語
4 - 森の淑女
青黒い立派な馬を引いた一人の男が、寒風の吹き渡る平原を渡ろうとしていた。ここへ差し掛かる前に、彼に声をかけた老人があった。
「この枯れ野を進んで戻ってきたものはいないぞ」。
身を案ずる老人の言葉に、男はこう言い返した。
「それじゃあ、わたしが最初に戻ってきた男になるよ」。
いっこうに果てが見えない平原を、彼は休まず歩き続けた。日が暮れても、灯りを手に歩き続けた。立ちこめた霧で前が見えなくなっても、茨の壁が立ちふさがっても、彼は戻ろうとはしなかった。
死んだように音の消えた空から、その闇のひとかけらが落ちてきたかと思うと、「ぎゃあ」とひと声鳴いて、黒いカラスが目の前をかすめて飛んでいった。その方角に目を凝らし、男は黙って歩き出した。あるいはまた、色を失った大地から這い出してきたつちくれが、わらわらと足もとにまとわりついたかと思うと、灰色の狼が群れをなし、恐ろしいうなり声を上げて追いかけてきた。男が目もくれず、カラスが飛び去った方角を目指して歩いていると、狼たちはやがて姿を消した。
あるとき、ふと気づくと、今まで見通しのよい平原だったはずの景色が、一変して高い木々に囲まれた森になっていた。しかもそれらは枯れ木でなく、鬱蒼と葉を茂らせたみずみずしい広葉樹ばかりだった。けれどもやはり彼は立ち止まることなく、前に向かって歩き続けた。
男が引く馬の鞍には、金細工のある長い剣がぶら下がっていた。しかし馬具は粗末なつくりで、彼が着ているものも、ぼろきれをはぎ合わせたような有様であった。彼はある大木の前で立ち止まると、木の根に馬を繋いでおいて、しばらく眺めまわした。すると、太い幹の真ん中に空いたうろを見つけた。そこには、木の皮に似せた幕が下がっていたので、裾を持ち上げて中の様子を見ようとしたとき、背中に気配を感じて振り返った。
そこには、長い髪をした女が立ってこちらを見ていた。彼女は、その明るい色の髪をすべて降ろしていて、前髪はまだ短かった。薄く伸した毛皮の上着を皮の帯で締め、手には小さなかごを提げていた。若く素朴な立ち姿には、まるで森の主であるかのような、静けさに満ちた風格が漂っていた。
「ああ、森の淑女よ、あなたをずっと探していたのだ」。
男が声を弾ませて呼びかけた。彼女は、懐かしそうに相手の顔をしばし眺めた。長い髪と長い髭のために、男は自分の顔のほとんどを隠している。けれどもわずかに覗いた片方の眼は、彼の強い意志を雄弁に物語っていた。
「あなたがここにいることがわかるのは、わたしだけなのだ。そのために、これまでいったいどれだけの犠牲を払ってきたことだろう。すべてを失いながら再び迷い、同じ苦しみへと進んでゆく・・・・。けれども、それらはすべて報われた。そうだ、あなたが来てくれたのだから。すべての苦しみが翻って、歓びとなる時がきたのだ」。
そう言って、彼は彼女の手をとった。
「さあ、わたしの女神よ。ともにこの歓びを分かち合っておくれ」。
すると彼女はこう答えた。
「あなたが、森の淑女、と呼んだとき、それは私にとってとても親しみのある呼びかけのように思えたのです。問われることも語りかけるものもなく、呼びかけられるべき相手も失ったまま、我を忘れるほど長い年月を暮らしたというのに」。
よく澄んで落ち着き払った彼女の声は、彼の戸惑いと後ろめたさを一瞬で氷解させた。長いこと空っぽのままだった胸の中に、歓びと懐かしさが満ちてあふれだした。
「よいのだ、考える必要はない。目の前にあなたがいる、わたしにとってはそれがすべての答えだ」。
まるで自分に言い聞かせるように、彼は彼女に言った。
それから二人はうろの中に入り、大きなこぶの上に並んで座って、長々と話をした。男は矢継ぎ早に質問をしていったが、彼女が次々によどみなく答えるので、すっかり舌を巻いてしまった。
「あなたにとってこの世でわからないことなどないのだね」。
そのとき彼の記憶から、遠い少年の日々が色鮮やかに呼び起こされた。
「彼女と居た時間、あの場所こそが、わたしの我が家だった。あなたはまるで彼女に生き写しだ・・・・聞かせておくれ、わたしは帰ってきたのだろうか?」。
「あなたは思い出したのです。本当にあなたが求めていたもの、本当にあなたが居るべき場所を」。
どんな質問でも、彼女はわずかの迷いも見せず、まっすぐに彼を見て答えるのだった。
「このわたしが誰だかわかるだろうか?」。
「あなたは、人々から死神王と呼ばれている。なぜなら、一度死の国へ足を踏み入れた身だから。その胸には今、固い決意が隠されている・・・・あなたは再び、そこへ戻ると決めたのです。今度は、決して戻らぬ覚悟を持って」。
「だが、わたしはとても無力なのだ」。
彼は悲しそうに言った。
「再びそこへ戻るために、あなたの力を借りなければならない。わたしは、一人では何もできない」。
「そうではありません」。
彼女は力強く言い返した。
「あなたにはわかっているのです。あなた一人が力を持つ必要はない」。
「望むものを求めて裏切られ、失ったものを取り戻そうとして絶望する。幻はみなわたしのもとを去ってしまった。そこには、それでもまだ追いすがるわたしだけがいる・・・・わたしの言葉に背く者はいないというのに。あまたの人の血と脂にまみれたわたしの剣を、恐れぬ者はだれもいないのに」。
「あなたはいま、あなた以外のものの導きによってここに来ました。あなたの言うとおり、これは歓びの徴(しるし)です」。
「愛しい森の淑女、わたしの女神よ。どうか言っておくれ。言葉は無力だと。剣は無為だと」。
「迷子が迷っていられるのも永遠ではありません。幸運な旅人よ、旅は終わろうとしているのです」。
「わたしを取り囲んだ無限の闇は、わたしがこの目を開いたなら、すべて消え去るのだ。そしてあなたこそが、わたしの目を開けるすべを知っている。この世でただ一人、あなただけが」。
「もはやあなたによそ見をする猶予はありません。恐れて退くことはもうやめて、目の前の事実を抱きしめなさい」。
「あなたはここで、ずっとわたしを待っていてくれたのだね。ほかのだれでもなく、ただわたしだけを」。
「決して裏切られることのない約束がひとつだけある。だけどそのほかの約束はすべて裏切られるのです。あなたはそれを知っている」。
「われわれのほかにそれを証明できるものはだれもいない」。
「今こそ、そのときが訪れたのです。あなたがずっと待ち焦がれていた、物語を終わらせるときが」。
彼女がそう言ったとき、彼の片方しかない目から、涙が一筋こぼれて頬を流れた。
夜が明けても森に朝は来なかった。彼は再び枯れ野を目指して出発するために、木の根に繋いであった馬の手綱をほどいた。そして、やがて生まれてくる息子について彼女に尋ねた。
「彼はわたしを許すだろうか?」。
彼を見送るためにうろの入り口に立っていた彼女は、やはりよどみなく答えた。
「それはあなたにはわかっているはずです」。
「彼はいつまでわたしを待ってくれるのだろう?」。
「それはあなたにはわかっているはずです」。
「彼はわたしを迎えに来るために、力を使わねばならないだろう。それはあってはならないことだ」。
「彼は沈黙を従えてここへやってくる。それは、いまだかつて誰も見たことがない漆黒の闇なのです。闇のただ中へまっすぐに目を凝らして、彼を見つけだせる人が、父親をおいてほかにあるでしょうか」。
枯れ野の入り口で番をする老人は、男が戻ってくるかどうか案じながら帰りを待っていた。四日目の明け方になって、彼があの青黒い馬を引いて、けろりとして戻ってきたのを見つけ、老人は驚いて尋ねた。
「あんたはたいした勇士様だ、ぜひ聞かせてくれ、この先にはいったい何があるのかね」。
「いいとも、聞かせてやろう」。
男は快く応じた。
「朝の来ない夜の森に、この世のものとは思えぬほど美しい姫君がたった一人で、たった一人の待ち人を待っているんだ。彼女の思いが果たされたとき、それは白鳥に姿を変えて彼方の空へ飛び去るという。──もはや、どんなに命知らずの勇士や、名だたる賢者どもが彼女のもとへたどり着けたとしても、まったく無駄足になるだろう。なぜなら、たった一人の待ち人は誰あろうこのわたしで、白鳥が空へ帰るのを、この目で見とどけて帰ってきたのだから」。