終わりの物語
3 - 最後の巫女
嵐の夜の森を、一人の男が、足早に先を急いでいた。粗末な外套を頭からかぶって、足元は泥まみれ、膝から下は傷だらけだった。彼はひどく疲れていたが、決して倒れまいと強く気を張っていたので、その形相は恐ろしいほどこわばっていた。
行く手に小さな灯りが見えてきたとき、彼は駆け出した。それは小さな山小屋で、大雨に押しつぶされそうにして建っていた。腰をかがめなければ入れない小さな扉を、投げつけるように開けると同時に、彼は大声で叫んだ。
「いま戻ったぞ!」。
灯りの下には、横になった女と、傍らに幼い少女の姿があった。男は、泥だらけの外套をかぶったまま膝をついて、
「いま戻ったぞ、さぁ、お前さんは助かったのだぞ!」。
などと大声で呼びかけながら、青白い顔をした女の肩をゆすった。それから、
「どうした、さぁ、起きるんだ、お前さんは助かったのだぞ!」。
と、あいかわらず大声で呼びかけた。そして痩せた体を抱き起こしたとき、彼は自分の呼びかけがまったく無駄だったことを思い知った。
それから男は、にわかに押し黙って、手を離した。向かい合わせて座っている少女は、さっきから何にも言わずに、女と男の様子を見守っているだけだった。明るい色の長い髪を後ろに束ねた彼女は、煤だらけの毛皮に身を包んでいたけれども、沈黙した表情と冷静なまなざしは、驚くほどに大人びていた。その顔を見たとき、男は息をひとつ呑んで、こみ上げる嗚咽を喉の奥に押し込んだ。それから、少女に向かって、震える声でこう言った。
「わたしは、母さまを救ってやれなかった。まったく済まないことをした」。
少女は、やはり冷静な様子で、小さく首を振って見せた。男は尋ねた。
「わたしとともにきてくれるだろうか? あなたをここに残していくわけにはいかない」。
すると少女は俯いて、痩せた女の死に顔に視線を落としたあと、もう一度顔を上げて、うなずいて見せた。
炭焼き小屋からわが家に戻ってきた男は、妻にことの顛末を話して聞かせ、少女を自分たちの娘として育てようと説得した。
「山道で出会った不憫な母子のために、薬草を探し回ったが、間に合わず母親が死んでしまったのだ」。
心優しい妻は甚く哀れんで、夫の説得に喜んで応じた。
それからまもなくして、炭焼き夫婦の家へ、黒髪に黒装束の美しい女が訪ねてきた。彼女が呪術師だというので、新しい家族を祝福してくれるように夫婦は頼んだ。女は、少女を見るやたいそう喜んで、
「わたしの生きているうちで最上の願掛けを施そう」
といった。
「誰よりも貞淑で、誰よりも知恵があり、心優しいあなたには、生涯をかけてあなたを崇拝する伴侶が待ち受けているだろう。彼は誰よりも勇敢で、誰よりも利口で、あなたにふさわしい美しさを備えている」。
夫が不思議に思って尋ねると、彼女は答えた。
「この娘には未来が見えている。それも、今日明日なんていう話じゃない、この世の最後のときまでだ。あなたは大変な授かりものをしたのだよ」。
やがて女呪術師の言ったとおり、少女があらかじめ言ったことが、あとからそっくりそのまま起こることがわかり、それがひっきりなしに続くようになった。すると炭焼き夫婦の思惑にはお構いなしに噂が広がり、彼女の予言を仰ごうとたくさんの人々が毎日押しかけてくるようになった。
同じ頃、城の王が招いた高名な僧侶が人々の評判を集めていた。彼はあるとき王に進言して、新たな掟を民に課すべきだ、そうすればあなたの富は今の何倍にもなるだろうといった。
「どんな掟を課すというのだ」。
王の尋ねに僧侶はこう答えた。
「男女の契りにまつわる決めごとをもっと厳しくせねばなりません。夫婦は一対であるべきで、妻が夫以外に体を許すことは重大な裏切りであり、夫がほかに子供をもうけることなどもってのほかです」。
けれども王はいい返事をしなかった。そこで僧侶が、かつて堅牢な島の王国が、たった一人の淫婦のために瞬く間に没落した恐ろしい体験を話して聞かせると、王はようやく彼の進言を聞き入れた。
これを陰で聞いていた女呪術師は、僧侶を捕まえてこう訊いた。
「誰も自分のことなど知らぬと高をくくっておいでかね。お前の右の人差し指が無いわけを、誰も知らぬとでも? ・・・・国を滅ぼした、ああ大したものだ。でも、いつまでそんなことを続けるつもりだ? 自分のしでかしたことをさも他人事のように言って罪を断じる、自分の贖罪の替わりに・・・・」。
それから女呪術師は、急いで炭焼き夫婦の家へやってきて、夫婦に言った。「いますぐ娘を私に預けて、あなたがたはここから逃げなさい」。
夫婦がわけもわからず戸惑っていると、お隣の奥さんがやはり慌てて駆け込んできて、
「お城の衛兵があんたたちを捕まえるといって騒いでいる」。
と言った。するとその言葉通りに、いかつい衛兵数人が押しかけてきたかと思うと、あっという間に夫婦と娘、それに女呪術師を取り押さえて連れ去ってしまった。
四人は即座に審判の場へ引き出された。裁きを下す一段高い席には、僧侶が座っていた。彼は悠然と、罪人たちに裁きを言い渡した。
「炭焼き夫、汝が家の外に子をなしたのは許されざる大罪だ。その妻、お前はそれを知りながら隠した挙句、その子にまがいものの予言をやらせて人心を惑わせた。そして呪われし魔女、お前はこの大罪の子にあろうことか最上の祝福を与え、このわたしを脅しつけて罪から逃れようとした」。
彼に異を唱えることは誰にも許されなかった。
処刑を明朝に控えた夜のこと、女呪術師が囚われている檻の前に、夫婦と娘が連れてこられた。そばには僧侶が立っていた。
「最後に贖罪の機会を与えよう。よいか、お前がこの娘にかけた願掛けをすべて解くのだ。そうすれば、この夫婦と娘の処刑は取りやめにして、追放にとどめてやるぞ」。
僧侶の言葉に、女呪術師は黙ってうなずいて、娘を前に立たせるよう申し付けた。それから、朗々と願掛けを始めた。
「もはやあなたの人生にあるのは闇だけだ。あなたは死ぬまで孤独であり、誰からも見向きもされない。ただ一人、死神がやってきて、無慈悲にあなたを連れ去るだろう。彼こそが、あなたがただ一人言葉を交わすことの出来る相手となるのだ」。
それから女呪術師は、格子の間から細い腕を伸ばして、
「お前はわたしのかわいい妹」。
と言って、娘の頬に触れた。そして夫婦のほうを見て、
「あなたが山道で出会った母親は、この男に殺されたわたしの大切な姉だった」。
と言った。
「姉は、自らの忠誠を貫いて、王に真実を告げた。しかし彼の妻には受け入れられなかった。不安にとらわれた哀れな彼女は、この下男がめぐらした奸計の餌食となった。だが彼は結局なにひとつ手に入れられなかったのだ。王の息子が、愛する父と母を手にかけることで、その謀略は破られたのだから・・・・かれは、まれにみる戦士で、知恵者であり、姿の美しい人だったというが、気の毒にも一人残らず家族を失ったのだ。果たしてその後どうなったものか・・・・」。
それからこんどは、僧侶のほうに向き直った。
「最後に、お前がこんなに血眼になって、男女の契りの純潔を他人に押し付けてまわっているそのわけを、教えておいてあげるよ・・・・いいかね。どんなに大勢の他人様が、いくらお前の代わりに善行をしてくれたって、お前が自分で罪を捨ててしまわないかぎり、その心の穴が塞がることは永久にないのだよ」。
僧侶がこれに応えて言った。
「もはやおまえの言葉にはなんの力もない。私と彼女の思いは遂げられたのだ。たとえこの娘が生き残っても、おまえがかけた呪いのおかげで、彼女を見つける人すらいないのだから」。
女呪術師は、僧侶を見据えて、静かに言い返した。
「いったい自分が何をしたのか、お前がそれを知る日は死ぬまでやってこないだろう。過去を裏切り、現在から目を背け、未来を閉じた自分を省みることは」。
女呪術師の願掛けのおかげで、炭焼き夫婦と娘は刑死を免れ、一人ずつ遠い流刑の地へ送られた。僧侶は、娘の処遇にことさら厳しくあたった。屈強な兵士たちに言いつけて、ずっと北の大陸の、日の光さえ届かない深い森まで彼女を連れて行き、そこに置き去りにさせたのである。任務を負った兵士たちは、この罪のない少女を黙って逃がしてやろうとよっぽど思ったけれども、僧侶が自分を「千里眼」だと言ったのを真に受けていたので、どうすることもできなかった。彼らがたどり着いたのは、屍の骨のような木ばかりに覆われた極寒の森で、空も大地も色を失った、まるで死の国のような場所であった。
木のうろに枯れ草を敷き詰め、入り口を厚い毛皮で覆って、幼い彼女の住まいをこしらえてやった。彼女と別れるとき、一人ひとりにお礼をされた。兵士たちはみな後ろ髪を引かれる思いで、さんざんに泣いてその場を去った。