終わりの物語
2 - 戦火の申し子
女の暮らしはつましく、たいてい物静かで無愛想だったけれども、小さな彼がやってくると、きまって物語を説いて聞かせてやった。それは昔話であったり、遠い南の国の怪物の話であったり、恐ろしい呪いの話であったりした。そして、どんな疑問も謎かけも難なく解くことが出来た。ただ、先々起こることを聞いたときだけは、「それはわからない」と答えるのだった。
小さな彼はその日、いつものようにおんぼろ小屋へやってきて、話をするようせがんだが、彼女はこう言って首を振った。
「私が物語をするのはもうおしまい」。
彼はびっくりしてわけを尋ねる。
「たとえ昨日と同じ話でもいいから、いつまでも僕に物語をしておくれよ」。
「坊や、どうか心配しないで」。
彼女は彼の頬に触れながら、優しく諭した。
「少しあなたが大人になったなら、私がいなくてもへいちゃらになるのだから。なぜかって? 私の役目はもう終わったの。あなたに限った話じゃないわ。みんなじきに、物語なんて聞きたいとは露ほども思わなくなるのよ」。
彼にはそんなことはとても信じられなかった。
「それじゃ、みんなは何が聞きたいと思うようになるんだろう?」。
「それはわからないわ。私にわかることは、変わらないものなどこの世に何一つないということだけ」。
小さな彼はその夜城に戻って、父親にこのことを話して聞かせた。そのとき父親は、女の家まで案内するよう息子に言いつけた。そして貧しい語り部の女が、お城おかかえの高名な巫女になったのは、それからまもなくのことだった。時おり地下の小部屋で父と巫女が、二人きりで密談しているのを知っていたのは小さな息子だけだった。彼は巫女が、自分の代わりに父に物語を説いて聞かせるようになったのだと思っていた。
同じ頃、どこからともなく飛んできた一羽のカラスが、城の周りを飛び回っては、ぎゃあぎゃあと鳴きわめくようになった。
「どうしてあんな不吉な鳥がやってきたものか」。
妃はひどく忌々しそうにつぶやいた。
「きっと、あの巫女が連れてきたのに違いないわ」。
そこで彼女は下男に命じて、カラスを捕まえて鳥かごに閉じ込めておいた。不思議なことに、それっきりカラスは鳴きわめくこともなく、すっかりおとなしくなってしまった。
それは、小さな息子のために遠く海を渡って、婚約者が城までやってきた日のことである。まだ幼い彼女を迎えるために、広間には城の主から小間使いまで誰も彼もがうちそろって待ち構えていた。カラスを捕まえた下男も、カラスのかごを抱えて駆けつけた。立派な衣装をつけた家来に手を引かれて、雪のように肌の白い黒髪の少女が姿を現したのを、みんなが息を呑んで見守っているそのとき、突然誰かが喋りだした。
その声はまず
「ああ、なんと美しいお人だ」。
といったので、みんなは少女の姿に誰かが感嘆の声を漏らしたのだと思った。ところがその声は、その先をこう続けたのだ。
「美しいお妃さま、聞いてください。たとえ私が裏庭の草を刈るほかに能のない下男だとしても、あのカラスの飼い主にうつつを抜かす王なんぞより、ずっとあなたにふさわしい男なのです」。
それからこんどは少し声色が変わって、また喋った。
「そのとおりです。私はあなたにすべてを捧げましょう。私の夫には決して許さないことでも、何でもかんでも」。
これを聞いて大慌てになったのは、かごを抱えた下男と、王の隣りでみんなを見下ろしている妃の二人であった。カラスは、声色をそっくり真似て、いつも聞いている彼らのやり取りを演じて聞かせたのだった。
妃の裏切りを目の当たりにした王は、なぜか顔色ひとつ変えず黙って座っていたが、その隣りの妃は、立ち上がって烈火のごとく叫び始めた。
「その声を聞いてはなりません。魔女が、自分の使いに嘘を吹き込んだのですから──自分の罪はまったくなかったことにして」。
彼女は巫女を魔女と呼び、カラスが演じて聞かせたのは自分と下男ではなく、王と巫女のやり取りだと言い張った。そのあいだに下男は、カラスを黙らせようとかごの中へ手を突っ込んだ。すると、カラスがその人差し指を根元から食いちぎったので、彼は悲鳴をあげてかごを放り出してしまった。カラスはそのすきに、まんまと逃げ出して飛び去った。
この騒ぎに花嫁の家来はひどく腹を立てたが、当人が花婿をたいそう気に入ったので、結婚は滞りなく成立した。ところがその花婿は、武芸の修行のために彼女のもとを離れなければならなくなった。人の寄り付かない険しい山にたった一人で籠るという夫を、幼い妻は涙ながらに見送り、それからまた三日三晩泣き暮れた。けれども彼女の悲しみは、夫と離れる不遇を嘆いてのものばかりではなかったのである。
「夫は私と別れたあと、あの階段を上っていったの。そのてっぺんには、牢があって、恐ろしい化け物が繋がれているのよ。私は、震える脚をこらえて密かに付いて行ったわ。その姿は見えなかった。でも、声を聞いたの。それは優しげなご婦人の声だった。彼女は夫に言ったわ。あなたは、物語の続きが聞きたいのかと。・・・・」。
夫はおそらく無言でうなずいたのだろう、女の声は彼に答えたという。
「それなら願いをかなえてあげましょう。だけど覚えておきなさい、これは終わりの物語だということを」。
幼い妃は、この女の話が恐ろしくて、そのうえ愛しい夫に秘密のあることを知って、たいそう心細い思いをしなければならなかった。部屋に閉じこもってから四日目の朝に、侍女がやってきた。
「外へ出るのも恐ろしいなんて、おかわいそうに。せめて、窓を開けて差し上げましょう」。
そう言って彼女が小さな窓を開けると、春の青空が見えた。しばらくそれを眺めたのち、
「みてごらんなさい姫様。あの不吉なカラスの姿がどこにも見当たりませんわ」。
と言った。
「本当に?」。
幼い妃はゆっくり近寄ってきて窓を見上げた。そして、ようやく笑みを浮かべてつぶやいた。
「きっと塔にはもう、化け物の女はいないのだわ。あのカラスは、化け物の使いなんだもの」。
それから長い年月が経った。王の息子は長じてすっかり逞しい戦士になり、彼の妃は健やかな子供たちに囲まれて暮らしていた。彼女の夫は、妻や我が子の前ではとても優しかったけれども、いったん外へ出ると血気にはやる癖があり、遠い国との諍いごとや、一騎打ちの申し込みがやってくるのを、毎日首を長くして待って暮らしていた。それは彼が、武芸修行の山へ行って以来のことだと妃は思っていた。そしてまた、塔のてっぺんで聞いた、彼と化け物の女の恐ろしげな会話もまた、いまだにありありと彼女の耳に残っているのだった。
あるとき夫は、左腕に大けがを負って帰ってきて、城門の前でどっと倒れてしまった。妻は気を失うばかりに心配したけれども、彼は傷口に粗末なリボンを巻いただけで、翌日にはまた出かけて行ってしまった。妻の目には、彼がまるで「終わりの物語」のために血眼になって働いているように映るのだった。
「心配することはない」。
夫は優しく語りかけた。
「わたしには、わたしのために命を預けてくれる万夫がある。彼らの言葉を聞くといい。われらの大将こそ戦火の申し子だと、万邦の軍神の寵児だと、口を揃えて言うだろう。彼らは皆、わたしのためなら我を忘れて戦いに身を投じる男たちだ。そのような恍惚と栄誉を与える男は、わたしの他にだれもいない。したがって、彼らのために、彼らによって、わたしは死なない」。
それからまもなくして、諍いの火種は城壁を越えて飛び込んできた。遠い戦場から夫は馬を三頭乗りつぶして馳せつけたが、彼が城の中で見たものは、妻と子供たちの無残な亡き骸であった。彼はその足で、王の間までまっすぐに向かった。そこには彼の両親が、揃って彼を待ち構えていた。父はすでに右手に剣を提げて座っており、息子がやってきたのを見ると、こう言った。
「愛する息子よ。お前の目の前にいるのは父ではない。うす汚い裏切り者だ」。
息子は聞き返した。
「わが父よ。あなたをこの手にかければ、物語は終わるのですか? 彼女の言ったとおりに──」。
「ああ、この期に及んで彼女の名を口にするとは!」。こう言ったのは、青白い顔をした母であった。
「あなたは本当に、私の腹から出てきた息子なのですか」。
息子は何も答えなかった。父親は、その息子だけをまっすぐに見て、彼に言った。
「私はその答えを知らない。おまえがその手で、答えを引き寄せるのだ」。
父の言葉を聞いて、息子は鞘に納めていた剣を抜いた。すでに人の血と脂にまみれた刀身は、それでも鈍い光を放っていた。一騎打ちのときいつもそうするように、彼は体を少し斜めに構えて立った。掛け声もなく繰り出された最初の一撃を、まるで見透かしていたかのように躱すと、そのまま体を低く沈め、相手の懐へ飛び込んだ。狙い澄ました渾身のひと突きは、容赦なく一瞬で相手の息を奪った。
「わが子が王殺しだなんて、こんな恐ろしいことが他にありましょうか!」。
倒れた屍に突きたてられた剣も抜かずに、黙ってそれを眺めている息子の膝にすがりついて、母は嘆いた。
「おまえをあの女からついに取り戻せなかった、不実な母を許しておくれ、だけどほら──」、
そう言って彼女は息子の左腕に手を伸ばした。
「これは私の髪を留めていたリボン。そうでしょう? ほら、坊や。見てちょうだい。私があなたをどんなに愛していたか・・・・」。
母は腕のリボンをほどいて、息子に差し出した。しかし彼はそれを取り上げたかと思うと、躊躇なく母の首にぐるりと巻きつけた。そして呆然としている彼女に向かって言った。
「おっしゃるとおり、わたしはあなたがたの息子だ。おわかりでしょうな、母上。それがために、わたしはどうしても、あなたを生かしておくわけにはいかないのです」。